大判例

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最高裁判所第二小法廷 昭和57年(あ)1400号 判決

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人斉藤展夫ほか七名の上告趣意第一は、事実誤認、単なる法令違反の主張であり、同第二は、憲法三七条、八二条違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、いずれも適法な上告理由にあたらない。

同第三は、公職選挙法(以下、公選法という。)一三八条二項は憲法二一条に違反する、というのである。

しかしながら、いわゆる戸別訪問を禁止する公選法一三八条一項が憲法二一条に違反するものでないことは、当裁判所の確定した判例(昭和四三年(あ)第二二六五号同四四年四月二三日大法廷判決・刑集二三巻四号二三五頁、昭和五五年(あ)第八七四号同五六年六月一五日第二小法廷判決・刑集三五巻四号二〇五頁、昭和五五年(あ)第一四七二号同五六年七月二一日第三小法廷判決・刑集三五巻五号五六八頁)であるところ、公選法一三八条二項が、選挙運動のため戸別に特定の候補者の氏名を言いあるく行為を前項に規定する禁止行為に該当するものとみなすと規定しているのは、このような行為には、当該候補者を選挙人に強く印象づけ、当該選挙人から同候補者への投票を得るのに有利に働く効果があるため、それが戸別訪問の脱法行為として行われるおそれがあるからであつて、戸別訪問を禁止する以上、かかる脱法行為を禁止することには合理性があり、また、右脱法行為の禁止によつてもたらされる表現の自由に対する制約の程度も、戸別訪問禁止の場合と比べ大きいとはいえない。そうすると、選挙運動のため戸別に特定の候補者の氏名を言いあるく行為を戸別訪問行為とみなしてこれを禁止した公選法一三八条二項が憲法二一条に違反しないことは、当裁判所の前記大法廷判例の趣旨に徴して明らかというべきである。所論は理由がない。

同第四のうち、憲法三一条違反をいう点は、公選法一三八条二項の規定する、選挙運動のため戸別に特定の候補者の氏名を言いあるく行為の意義が所論のようにあいまい不明確であるということはできないから、所論違憲の主張は前提を欠き、その余は、単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、いずれも適法な上告理由にあたらない。

同第五は、憲法一三条違反をいうが、原判決によれば、昭和四九年二月二四日施行の町田市議会議員選挙に立候補した佐藤まつ子の夫である被告人は、近隣住民から、佐藤まつ子が立候補しても挨拶に来ないとか従来あまり愛想のいい女ではないなどの誹謗中傷がされていたことを聞知し、これを気にして、選挙騒音の謝罪挨拶に回つて誹謗中傷で低下した同女への印象を回復するために、投票日が間近に迫つた同月一七日、現に選挙騒音を受けていた団地の入居者を戸別に訪れ、多数の選挙人に対し、選挙騒音の謝罪挨拶をした中で「佐藤まつ子」あるいは「佐藤です。うちの家内が」などといつて同女の氏名を言いあるいた、というのであるから、右被告人の行為が公選法一三八条二項にいう選挙運動のため戸別に特定の候補者の氏名を言いあるく行為にあたることは明らかであつて、これと同旨の原判決の判断は正当というべきである。したがつて、被告人の本件行為が同項所定の行為に該当しないことを前提として違憲をいう所論は前提を欠き、適法な上告理由にあたらない。

同第六は、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

被告人本人の上告趣意は、憲法一三条違反をいう点を含め、実質は単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

よつて、刑訴法四〇八条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(鹽野宜慶 木下忠良 宮﨑梧一 大橋進 牧圭次)

弁護人斉藤展夫、同飯塚和夫、同佐治融、同関島保雄、同林勝彦、同佐川京子、同志田なや子、同蔵本怜子及び被告人の上告趣意

第一重大な事実誤認《省略》

第二採証の法令違反《省略》

第三 憲法二一条違反

一 原判決批判

公選法一三八条二項と憲法との関係に関する最高裁判所の判例はいまだない。従つて、裁判所は、本件審理を通して、公選法一三八条二項が憲法で保障された基本的人権を侵していないかどうかを慎重に検討し、独自の判断をすることが出来る。

ところが原判決は、公選法一三八条一項が憲法二一条に違反するものではないとする最高裁判所の判例を変更すべき理由も認められず、これに従うものであるとしたうえで、公選法一三八条二項は同条一項の脱法行為とみなされて禁止される行為を定めたものであるから憲法二一条に違反するものではないと解すると判示した。原判決は、公選法一三八条二項に対する憲法判断を単に同条一項に関する最高裁判例を引用するのみで、独自の検討をまつたく行つていない。しかも、同条二項が憲法二一条の保障する表現の自由に対する制約となることは否定できないとしながらも、戸別に候補者の氏名を言い歩く行為について、これを放任するときは、同条一項の戸別訪問の脱法手段と化し、戸別訪問について指摘される諸幣害(買収利害誘導などの温床・煩瑣・多額の出費、情実支配・選挙人の住居の平穏の侵害)を生じるに至ることも十分予想されるので合憲であるとした。

しかし、原判決は、同条二項の候補者名の言い歩きが、何故諸幣害を生じるに至ることが十分予想されるのかその理由根拠をまつたく上げていない。これに関する証拠もない。原判決は証拠もなく独断的に判断した。しかも、仮に同条一項については、原判決指摘の幣害が生じるから戸別訪問を禁止する合理性があるとしても、同条二項の候補者の氏名を戸別に言い歩く行為は単に幣害を生じるに至ることが予想されるにすぎず、この程度では、憲法二一条で保障された表現の自由を制約する合理性がない。

憲法二一条が保障する表現の自由は国民の基本的人権の中でも最も重要な権利として保障されるべきものである。かような重要な権利である表現の自由の行使である候補者名の言い歩き行為を、単に幣害を生じるに至ることが予想されるという理由のみで一律に禁止することは憲法二一条に違反するものであること、しかもそれを刑罰でもつて処罰することは憲法三一条に違反するものであることを以下明らかにする。

二 憲法二一条違反

(一) 選挙運動として候補者の氏名の告知を伴う行為の憲法的意味

選挙運動として、候補者の氏名のみを戸別に言いあるくことはほとんどない。通常は戸別に言い歩く様々な形態の選挙運動に伴つて候補者の氏名が告知される。その中で投票依頼が伴う場合が公選法一三八条一項の戸別訪問である。しかし、投票依頼が伴わないが候補者の氏名の告知が伴う選挙運動は様々なものが考えられる。

例えば特定候補者の政策や経歴・人柄等を知るための様々な会合への出席の誘いや、特定の候補者自身を囲んでの懇談会、討論会等への出席の誘い、あるいは特定候補者の政策や経歴等が記載されている政党機関誌の販売や文書類を持参して講読を依頼する行為、その他、特定候補者の運動員や後援会員になつてくれるよう依頼する行為等がある。

これらの選挙運動は、特定候補者の投票を得たいと思えば、まず、選挙人に候補者の政策・経歴・人柄等を知つてもらいたいと考えるのがごく自然であり当然の運動である。一方、選挙人としても、かような訪問を受けることによつて候補者の政策をより深く知ることができるのであるから、投票に際しての判断資料を得る点で有利である。

(二) 選挙の重要性と戸別訪問の民主的機能

憲法の採用する議会制民主主義の政治体制の下においては、主権者たる国民が自からの意思、意見を国政の上に反映・実現させるための直接的、かつ有効な手段が選挙権の行使である。そして国民の多数意思がその代表機関である国会や地方議会の多数意思として形成されたときに、はじめて、議会は国民(住民)の代表者としての権威が認められ民主政治が行われる。そこで憲法は国民と国民代表機関を結ぶ機能を果す選挙権について、普通・平等選挙・投票の秘密を保障している。

しかし、民主政治実現のためには、選挙権行使自体を直接に保障するだけでは形式的で極めて不十分である。選挙権行使の前提としていかなる政党の何人に投票するのが選挙人の意思を国政に反映する上で効果的であるかの判断を選挙人に可能にする必要がある。そのためには、選挙権者に判断資料が十分に与えられ、又自己の判断の正当性を検証するために他の選挙人や立候補者との間の自由闊達な討論の機会が保障されていなければならない。選挙活動の自由は候補者がその政見・政策を国民に知つてもらうための表現の自由の保障としての側面と同時に、国民にとつては右に述べた意味における選挙権行使の為の判断材料を得る貴重な機会であり、選挙民にとつても選挙活動の自由は最大限に保障されねばならないのである。つまり、選挙活動の自由は国民主権と強く結びついて民主主義の根幹を形成しており、表現の自由の保障の中でも優越的価値を有する基本的人権であることに留意しなければならない。

更に、種々の選挙活動の態様・手段の中で戸別訪問は、特別なマスコミニュケーション手段をもつていない国民にも手軽に利用できる身近でかつ低れんな選挙活動の方法であると共に、選挙人側でも直接立候補者の政見や人柄を確かめ、自らの政治的意見を候補者に伝えることができるという双方向的な伝達方法であつて、自由な討論の場が確保されるという他の選挙活動の方法では代替しえない民主主義的長所を有している。

投票依頼を伴う公選法一三八条一項の戸別訪問の重要性については後述するが、投票依頼を伴わない同条二項の戸別訪問特に候補者の氏名の告知を伴う形態の戸別訪問は、主として、特定候補者に対する投票を依頼するのではなく、候補者の政策や人柄等を選挙人たる国民に広く知らせて、国民の投票行為の判断資料を与えるものである。もちろん訪問する側に投票依頼の意図があつたとしてもその意図は直接的行為として表現されるものではない。従つて、投票依頼を伴う戸別訪問以上に、同条二項の戸別訪問は正当な、望ましい選挙運動として憲法上保障される必要がある。

戸別訪問を自由にすることは、国民の主権的権利を保障する上で、もつとも重要な選挙運動であることは、すでに一審の最終弁論及び原審における控訴趣意書の中で詳細に論じているが、再度、ここに掲げておく。

1 戸別訪問と国民の主権的行為

(1) 日本国憲法は、その前文及び第一条で国民に主権があることをまず第一にうたつている。明治憲法との決定的な差は、主権が天皇ではなく国民にあるということである。このことによつて、日本は戦後ようやくにして民主主義国家の仲間入りが出来た。憲法は国民はその主権として権利を、具体的には選挙を通じて行使することとした。即ち、憲法は、前文で国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、国政の権力は国民の代表者が行使するとうたつている。そしてこれを受けて、一五条で国民の公務員の選定罷免権及び公務員の選挙に対する普通選挙権の保障、五三条で国会は全国民を代表する選挙された議員で構成することを保障し、九三条で地方公共団体の長及び議会の議員の選定権を住民に保障した。かように、国民の選挙権(参政権)は国民の主権者としての最大の権利であり国民固有の権利である。だからこそ、選挙権は国民の基本的人権の中でも主権的権利として最大限保障されねばならない。代表制民主主義においては、議会の国民代表的性格は主権者である国民が議会に国政上の立法機能を授権したからこそ成立する。これはイエリネックの説で今日も多くの支持を得ている(林田和博選挙法三三頁以下)。民主政治においては代表者と選挙人の関係は緊密で、代表者はつねに選挙人の意思を尊重し、選挙の公約の実行に関する政治的道義的責任を負い、議会は常に民意の代表機関であることを意味する(林田和博・前掲書三五頁)。

従つて、民主政治が健全に機能し、議会が国民の代表機関であるといえるためには、国民の意見が選挙を通じて議会に反映されることが保障されなければならない。そのためには選挙において主権者である国民は、国政や地方政治に関する情報を十分与えられねばならず、国民相互においても意見の表明や討議の機会が保障される必要がある。国民が候補者の中から代表者を選任するとなれば、候補者の主張・政策・人柄・経歴・活動状況等や所属政党等の政策や活動等の知識や情報が正確にかつ豊富に提供され、それらが選挙人相互の質疑・討論が行われることが必要である。このことによつてはじめて国民は主権者として主体的に国政や地方政治に参加することが出来るのである。かかる条件が制度的に保障され機能したときに、はじめて、議会は国民(住民)の代表者としての権威が認められ民主政治が行われているといえるのである。

かように選挙は立候補者や所属政党、支持者間において政策宣伝がもつとも自由に行われるべきで、そのための選挙運動はその自由が最大限尊重されねばならない。この点で憲法二一条が保障した政治活動の自由、表現の自由は、単に自由権的人権としてのみみるのではなく国民の主権的権利の実現に必要不可欠の権利であることを認識する必要がある。

(2) 戸別訪問は、右の目的をはたすのに最もふさわしい選挙運動である。即ち、戸別訪問は選挙人に対し、候補者の政権・人格識見、経歴、手腕、所属政党の政策等を正確に伝達し、選挙人に対し、これらの判断の資料を直接提供し、その共感を得て候補者に対し投票を得させる等の効果を企図するものであるから、公正健全な選挙を行う目的に役立つ最も有効な手段であり、言論を中核とする選挙運動として自由であるべきものである。戸別訪問は、選挙人の生活の場で候補者と選挙人、運動員と選挙人、選挙人相互間の直接の対話により判断の前提となる情報を提供し検討し相互批判する機会を与える点で、もつとも民主的な選挙運動である。

また、戸別訪問は、候補者なり運動員が直接選挙人宅を訪問する形であるため、誰でもがいつでも出来る。その点で初歩的選挙運動といえる。しかも財政や権力等と無関係で国民にとつても平等で最も民主的である。国民の代表たらんとする者が直接国民の声を聞くことが出来る機会でもあり、この国民の声を直接議会に反映してこそ本当に代表機関と言えることになる。

かように、戸別訪問は自由に認められるべき国民の権利である。

2 外国での戸別訪問の自由化

右に述べたように、戸別訪問は民主政治からいうと、最も自由に行われるべき選挙運動である。このことを近代民主政治を行つている欧米諸国において戸別訪問が選挙運動の最も有力な方法になつている事実を示すことにより明らかにする。英米においては、戸別訪問を初めとする個人的な投票の勧誘運動を、キャンバス又はキャンバシングと称し、選挙運動の最も有力な方法となつているという。この主体は戸別訪問である。キャンバシングの目的は、①有望な投票人の所在をつきとめ、②彼等の大体の政治知識を鑑定し、③支持が不明の者を自己の方向に考慮するよう働きかける。④登録し投票する人を獲得することである。キャンバシングは政治活動の最前線を含んでいる。イギリスではキャンバシングは最も有効な選挙の手段として、綿密な計画の下に活発な運動が行われている。キャンバシングの重要性はアメリカでも十分認識され、或る政治団体は政治組織の効力は戸別配達の大きさで測られると規定し、共和党は選挙運動員はこまめに戸別訪問することを選挙運動員に教育している。こうして英米ではキャンバシングを通じて、政治が大衆の中によく浸透している効果が見られ、同時に政党もくだけた形で選挙民に接近している。運動員は選挙ばかりでなく日常活動が大切で、それが選挙の時に生きてくる。従つてイギリスでもアメリカでもキャンバシングが買収の温床になるという事実は見られない。また英米におけるキャンバシングは、単に有効な選挙運動の手段としてのみでなく、大衆レベルでの政治であり、一般の政治意識や関心を高め、政治を国民に直結させる機能を果している。しかも政党を中心に行われているため政党政治の育成の基盤となつているという(坂上順夫レファレンス一四三号二九頁以下「弁七五号証」)。

英米は戸別訪問が自由である他、事前運動やポスター等の文書規制もない(外国の選挙制度「弁第一一五号証」)。

その他のヨーロッパ諸国でも自由な選挙運動が保障されている。イタリアは選挙運動の内容はすべて自由である。西ドイツも選挙運動はほぼ完全に自由である。フランスは戸別訪問は自由であるがイギリス程熱心ではないという(外国の選挙制度「弁一一五号証」)。

このように先進的資本主義国で近代民主国家といわれている国の中で戸別訪問を禁止しているのは日本くらいであろう。

3 戸別訪問の自由化を求める国内世論の動き

(1) 先進国の中では唯一戸別訪問を禁止しているわが国の公職選挙法の規定に対して、国内からも戸別訪問は自由にすべきであるという世論が、あとをたつことなく主張されている。

まず新聞の社説等には戸別訪問を自由化すべきであるという主張が目だつ。

朝日新聞を例にとると昭和四二年一一月一日、同月四日、昭和四三年三月四日、昭和四四年三月二九日の各社説で、戸別訪問をはじめ選挙運動の自由化を求める意見を主張している。世界に例のない戸別訪問禁止や規制だらけの公職選挙法から国民を解放し、自由で活発な選挙を求めている。最近でも毎日新聞が昭和五五年六月七日の社説で、読売新聞が昭和五五年六月七日の記事でそれぞれ戸別訪問の自由化を求める意見を出している。三大新聞がこぞつて社説や記者の意見という形で、戸別訪問を中心とする選挙運動の自由化を求めるということは、国民の中にもそれを求める世論が大きいことを意味する。

(2) また選挙制度審議会は昭和三六年に発足以来選挙の自由化を答申して来た。

昭和四〇年八月二六日第三次選挙制度審議会は一般の選挙運動について、言論、文書の規制・戸別訪問の禁止はできるだけ自由化するとの委員長報告を行つた(朝日新聞同日付夕刊「弁第七九号」)。

昭和四一年八月九日の朝日新聞(弁第八二号証)は、第四次選挙制度審議会に戸別訪問等選挙運動の自由化を求める元警察庁長官の柏村提案が出されたことを報道した。この記事では警察庁の刑事課長は同審議会で「警察は買収・供応の悪質犯取締に重点を置きたいので戸別訪問自由化に賛成する」と述べている。

第五次選挙制度審議会は昭和四二年一一月二日戸別訪問の自由化、文書、言論の自由化を答申した(弁第一一四号証・弁第八五号証)。

これら国の選挙制度審議会の審議や答申の中でも戸別訪問の自由化を求める意見が中心的に議論され、自由化に賛成する委員が多数であつた。

(3) 国会議員の意見

最近では昭和五四年二月九日付朝日新聞では自民党選挙制度調査会の小泉純一郎氏が戸別訪問の自由化を求める意見を出している。また昭和五五年六月に自由法曹団と日本国民救援会が参議院議員立候補者に戸別訪問による選挙運動の是非に関するアンケートをとつたところ、87.79パーセント(一一五名)の候補者が戸別訪問自由化に賛成した結果が出た。反対は四名3.05パーセントにすぎなかつた。賛成の理由の中では、①候補者や政党の政策について有権者と直接対話が出来る。②誰でもできる身近な選挙運動で政治参加のよい機会である。③欧米では完全に自由で選挙運動の中心をなしている。④政治に対する国民の関心を高め、言論中心の明るい選挙になる。の順で多かつた。

(4) 戸別訪問の実態

戸別訪問ぬきの選挙運動は考えられず、公選法で禁止されていても、いずれの党、候補者、支持者をとわず広範囲に行われているのは公知の事実であり、新聞等でもその実態は良く報道されている。

かように、今日の日本の状況は、すでに戸別訪問の自由化を実施すべき状況にあることはまぎれもない事実である。

4 戸別訪問自由化の経験例

わが国でも、公職選挙法が適用ない選挙で戸別訪問を自由化した例がある。

(1) 品川区長準公選の経験

昭和四七年一一月施行された品川区長準公選は戸別訪問を自由にした。この結果、支持者、非支持者を問わず戸別訪問先で運動員に区への要求論議をするものもあれば、戸口で会話を拒否するものもいる。訪問が迷惑になれば訪問する方が損するわけで、迷惑を感じさせない努力をするようになるものであるとの経験が報告されている(弁七三号証)。戸別訪問が自由になつたのでのんびりした空気になり、区民は戸別訪問の自由化で選挙が身近になり、候補者と話し合えて良かつた等自由化を歓迎した(昭和四七年一〇月二八日朝日新聞・昭和五〇年五月四日朝日新聞)。

(2) 中野区教育委員準公選の経験

中野区は昭和五六年二月教育委員準公選を採用して区民から教育委員候補を選んだ。このときの選挙は戸別訪問をはじめ選挙運動を自由にした。中野区はこの制度をとり入れるために専門委員の報告も受け(弁一一八号)実施したが、この実験に対し各新聞社とも高く評価した。社説でも選挙運動を自由化したことにより自由闊達で公正な選挙が行われ区民も戸別訪問の長所である直接候補者や運動員と対話し、政策もわかり選挙の判断に役立つたと評価し報道していた(弁一〇二号の三乃至六)。中野区は右の教育委員準公選の選挙運動について実施前と実施後の区民のアンケートをとつた。それによると、実施前は選挙運動を自由化することに対しては賛成が二五七人、反対が三八六人で反対の方が多かつた(弁第一二六号証)。ところが、実施後のアンケートでは戸別訪問が自由であつたことに対して肯定的なもの一九件、否定的なもの五件で、肯定意見の方がはるかに多かつた。肯定の理由としては、「立候補者と話し合えてよかつた」「その人の考えがわかつてよい」などの意見が多い(弁第一二七号)。このことは、実施前は一般選挙では公職選挙法で戸別訪問等選挙運動はかなり禁止されているので、一般的には先入観で選挙の自由化に否定的な意見を持つ人が多かつたが、自由な選挙を実施してみたら、戸別訪問等自由な選挙の長所がわかり賛成が増えたと考えることができる。

かように、戸別訪問について弊害を心配するよりも自由化を実施すれば弊害はなく長所がわかるということをはからずも証明しているのである。

5 なお、選挙運動に関する研究では第一人者である杣正夫九州大学教授は、戸別訪問を自由化することによつて、選挙人の選挙における主体性の強化に役立つこと、買収等の腐敗行為が減少に向うこと、選挙費用の節減が可能になること、選挙の腐敗行為の取締りが徹底すること等の利益があることを指摘していることに注目する必要がある(ジュリスト七四八号五九頁以下)。

(三) 公選法一三八条二項の行為は弊害を生じるに至ることが十分予想しうるか

第一の弊害は買収その他不正行為の温床に至ることが十分予想されるという。戸別訪問を禁止する理由の中で主要なものがこれである。他に言われている弊害のみでは、戸別訪問を禁止する程の理由にはならないので、特にこの弊害が十分に予想されるか検討する。

最高裁昭和四三年一一月一日第二小法廷判決は、戸別訪問が選挙人の居宅その他一般公衆の目のとどかない場所で、選挙人と直接対面して行われる投票依頼等の行為であるから不正行為の温床となり易いと述べている。

しかし、一三八条二項の行為は投票依頼等の行為ではなく、先に述べたように、投票依頼を伴わないもので、候補者の政策や経歴を知る会等への参加を訴えるものや、候補者の政策・経歴・人柄等を直接選挙人に知らせる行為である。従つて、直接投票に結びつく買収等の不正行為とはまつたく無縁のものである。従つて、不正行為の温床にも、また、不正行為の温床に至ることが予想されることもまつたくない。

第二の弊害は選挙人の生活の平穏を害する等の迷惑論である。

戸別訪問は投票依頼行為であるためある程度選挙人の時間を拘束し、それが迷惑を与えるということになる。ところが一三八条二項所定の行為は単に候補者の氏名等を言いあるく行為であり相手方の対応のいかんを問わない一方的行為であるため相手方に迷惑を与える程のものではない。従つて一三八条二項所定の行為が戸別訪問の脱法行為であると言えるためには、居宅内等に立ち入つて投票依頼をする場合、相手方が受ける迷惑と同程度の迷惑を伴うものでなければならない。しかし、かような迷惑を与えることは二項の行為には予想されない。

第三の弊害は、候補者に煩に耐えないという。

このこと自体をとり上げれば戸別訪問も二項所定の行為もともに煩わしいといえるかもしれない。しかし、もともと戸別訪問も二項所定の行為もともに候補者自体よりも支持者ないし運動員が主として行うものであり候補者にとつて煩わしいものではない。特に一三八条二項の行為は、その規定の内容から見ても候補者よりも支持者や運動員の行為であり、また立法過程を見ても第三者の行為の規制として出て来たものであることから見てもこの弊害はあてはまらない。

第四の弊害は運動員等に多額の出費を余儀なくされるという。

これ自体が戸別訪問独自の弊害と言えるか問題あるが、運動員への出費という点だけでは戸別訪問も一三八条二項所定行為も同じ立法趣旨であるといわれれば同様にいえるかもしれない。ただ、戸別訪問も候補者の氏名の言い歩き等の行為も実際は支持者が手弁当で行う活動で多額な出費を余儀なくされる可能性は少ないものである。

第五の弊害は投票が情実に支配されるということである。

戸別訪問が情実により支配される危険があるとするならば投票依頼行為等相手方との人間関係によつてはじめて生じうることである。ところが一三八条二項所定の行為は一方的に候補者の氏名等を告知言い歩く行為であり、相手方の反応を考えていない。従つて情実に支配されることはない。

以上、公選法一三八条二項が戸別訪問と同様の弊害を生じるに至ることが十分に予想されるという原判決は誤りであることが明らかである。

第四憲法三一条違反《省略》

第五 憲法一三条違反

一、はじめに

原判決が被告人の行為に公職選挙法一三八条二項を適用したのは、個人の尊重、生命、自由及び幸福追求の権利を保障した憲法一三条に違反し、無効である。

原判決は、昭和四九年二月二四日施行の町田市議会議員選挙に立候補した佐藤まつ子の夫である被告人は、投票日が間近に迫つた同月一七日に、山崎団地内の佐藤まつ子後援会の事務局長をしていた篠原保らを伴つて、現に選挙騒音の被害を受けていた山崎団地一街区の入居者を戸別に訪れ、直接多数の選挙人に対し、原判示のとおり選挙騒音の謝罪挨拶をした中で「佐藤まつ子」あるいは「佐藤です。うちの家内が」などといつて同女の氏名を言いあるいていることが認められる。そして、被告人が選挙騒音に対する謝罪を行うこと自体、その時期及び対象者に照らし、各選挙人の、選挙騒音を発している側にいる佐藤まつ子に対する感情を好転させ、同女への投票を得るのに有利に働く可能性があることは明らかであり、また、被告人の捜査段階及び原審時に第四八回公判における供述によれば、被告人は、佐藤まつ子について、近隣住民から立候補しても挨拶に来ないとか同女が従来からあまり愛想のいい女ではないなどの誹謗中傷がされていたことを聞知し、これを気にして、選挙騒音の謝罪挨拶に回つて誹謗中傷で低下した同女への印象を回復するために、同女への投票獲得に有利に働く右行為に及んでいるのであるから、被告人がこれを選挙運動のために行つたと容易に認定することができる。」と被告人の行為及び右行為に至る動機について誤つた事実認定をなし、被告人を有罪とした。

二、被告人の行為は憲法で保障された権利である。

被告人がおわびの挨拶を決意するに至る経緯(行為の動機)及び当日の同人の行為については前記第一、第二において詳細に論述したところであるが、ここで本テーマと関連する限度で要約して述べる。

(一) 山崎団地一街区は九棟三〇〇戸の住民が全体として一つの生活共同体をなし、自ら生活ルールを定め、互いに他人の迷惑とならないよう配慮しながら生活していることは一審判決の認定する通りである。

被告人は、妻まつ子が選挙に立候補し、騒音で一街区住民に迷惑をかけて心を痛めていたところ住民の中に「女房が選挙にでているのに亭主が挨拶にこないとは何ごとだ」との苦情の声のあがつていることを知り、一街区の住民の一人として佐藤家の世帯主としてこれから半永久的に居住をつづけるつもりの一街区住民との近所づきあいを大切にしたいとの心情から戸別に謝罪の挨拶をすることを決意したのである。他人に迷惑をかけた場合には謝るというのは極く常識的なことである。また一街区が一つの生活単位として存在し、一街区全体が激しい騒音の被害にあつていた当時の状況から、一街区全体を回るということは被告人にとつては全く当然のことであつた。

さらにその挨拶の内容は「四号棟の佐藤です。この度の選挙で女房が朝から晩まで車で回つてうるさくして申し訳ありません。こういう状態がまだ一週間続くと思いますけれども勘弁してください」というもので、時間にして各戸一分前後と寸刻に過ぎなかつた。

(二) 人が人として生活するうえで他人との共同生活は避けられない。共同生活にも種々あるが本件のような集合住宅における近隣住宅との共同生活の場合、円滑な日常生活を営んでいくには、定められたルールを守ること、常識的な近所づき合い(顔を合わせたら挨拶する、迷惑をかけたら謝る)をするなどのことは最低限実行しなければならないことである。それによつて共同生活において発生し勝ちのトラブルを避け、平穏な日常生活を営むことが出来るのである。前記のような騒音の状況、住民感情の中で被告人が挨拶をせず放置した場合、一街区全体の被告人に対する厳しい眼が予想されることもさることながら、被告人自身、非常に肩身の狭い思いでいなければならなかつたことは明らかである。

謝罪の挨拶は、被告人としては自己の人格的生存にとつて欠くことのできない行為であつたと言わねばならない。その意味で本件挨拶行為は、個人の生活の基本的な自由及びその実現としての行動であり、個人が自然に有する一般的自由権に含まれる行為であり、これを禁止することは憲法一三条に違反する。

(三) さらに原判決は「同街区(山崎団地一街区)には近隣の迷惑となる騒音や言動を禁じる組合規約が存在し、入居者が日頃生活騒音について互に特別の配慮をして生活しており、そのことが被告人が本件行為に及んだ一つの契機となつていたとしても、既に述べたとおり、選挙運動のために行う意思を有していたことが否定されるものではない」と山崎団地一街区の生活実態が被告人の行為の一つの契機となつていた(他に述べるようにこれが唯一の主たる被告人の動機だつたのであるが)としても「選挙運動のため」という目的が否定されるものではないという。右のような原判決の論理によれば「選挙運動のため」になした候補者名の言い歩きのみを処罰するとの公職選挙法一三八条二項の限定は何らの意味を持たないと言わねばならない。本件にみられるように選挙運動期間中の立候補者及びその家族らの多くの日常的行為が処罰によつて禁止されてしまうからである。その意味でも本件被告人の行為に公職選挙法一三八条二項を適用することの違憲性は明白である。

三、憲法一三条の保障する権利

(一) 憲法一三条は「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。」と定めている。

右の生命、自由及び幸福追求の「権利」がいわゆる一般的、包括的な自由権を保障したものであることは判例上も確立した見解である(最大判昭和四四・一二・二四刑集二三巻一二号、最大判昭和四五・九・一六民集二四巻一〇号等)。

右生命、自由及び幸福追求の権利は、前段の個人の尊重の原理を体現するものとしてこれと不可分的に結合し、人格的利益をその内容とする包括的自由権である。

ここにいう生命、自由及び幸福追求という言葉は、ロックの「生命、自由及び財産」に由来し、アメリカ独立宣言では人間が造物主から護り渡すことのできない権利として与えられたものとして、生命、自由及び幸福の追求をあげている。これらの中で主張される生命、自由及び幸福追求の権利は、個人の人格的生存に関する根源的かつ不可譲な自然権を意味すると考えられていたこと、この権利は単に抽象的な理論的領域に留まるものではなく、社会的に妥当し、その限り秩序と調和し得るものとして理解されていたという史的背景をもち、その発展上に位置づけられるべきものだからである。

(二) 生命、自由及び幸福追求権の制約

憲法一三条は基本的人権が「公共の福祉に反しない限り」「最大の尊重」を受けることを国政に要求している。したがつて基本的人権について、いかなる基準の下にその制約が許されるかは「公共の福祉」と「最大の尊重」の要請との相関関係から判断されねばならない。

従つて、制約される基本的人権の性質に従い、個別的に検討する必要があると考える。では生命、自由及び幸福追求権の制約基準はどうあるべきか。右権利が包括的な権利であることに鑑み、包括される個々の法益ごとに個別的に検討されるべき問題であるが、一般的には次のように考えるべきである。

1 それ自体反自然的ないしは反社会的行為を処罰する規範により制約される。そのような行為は、この権利の濫用された形態として共同生活秩序の中に含まれる法益に対する侵害となるからである。

2 同種あるいは異種の他人の権利により制約される。この場合の制約基準は、相互に対立する法益を調整する必要から導かれ、その場合の法益は原則として等価値的なものとして利益衡量により調整されるべきである。

3 社会公共的利益、たとえば公衆の健康、安全、道徳などを根拠として制約される(芦部信喜編憲法Ⅱ人権(1)一四五頁。種谷春洋「生命、自由及び幸福追求の権利(2)」法経学会雑誌一五巻一号九二頁)。

(三) 右基準を本件に適用すれば、被告人の行為を公職選挙法一三八条二項により禁止することは憲法一三条に違反するといわねばならない。

1 訪問先のほとんどの住民が被告人の挨拶を当然のこととして受け止めたという事実、公職選挙法一三八条二項はいわゆる形式犯であり、それ自体反社会的行為ではないこと等より前記1の制約根拠となり得ないことは明らかである。

2 本件は、被告人以外の他人の同種又は異種の権利を侵害したものではないから2は問題とならない。

3 被告人の行為により公衆の健康、安全等を侵害したとの事実はなく、また前記1より反道徳的行為ではないこと明らか(逆に道徳的な行為というべきである)だからである。

以上に述べた通り、公職選挙法一三八条二項を本件に適用した原判決は憲法一三条に違反しており、破棄を免れない。

第六公訴権濫用論《省略》

第七上告趣意書《省略》

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